2025年の夏。
この旅で私が探していたのは、
「どんな写真を撮るべきか」ではなく、
「どうすれば自由に撮れるか」でした。
誰のためでもない、評価のためでもない。
ただ、自分の心がふと動いたその瞬間に、
シャッターを切れる自分を探してみようと思いました
常に「正しさ」や「意味」を探してしまう自分は
構図や背景、撮る理由すら求めて、
本当は何も考えずに撮りたかったはずの風景を、
心の中で否定してしまう癖がありました
何も考えないという事は、とても難しいのです。
その殻を破るためのヒントは、
日本で出会った一人の女性から始まりました。
「自由に撮ればいい」 - 写真家・西本喜美子さんの言葉
「下手でいいの、好きなように撮れば。」
西本喜美子さんに何度もかけてもらったその言葉は、
心に優しく、とても深く残りました。
年齢も、技術も、意味も超えて、
「自分の目が好きだ、面白い、美しいと思ったものを撮る」
そのシンプルな自由に、いつまで経っても「理由」を紐づけていました
Eryckとの出会いと、もうひとつの“許し”
パリの写真家Eryckと始めたフォトセッションは、
「光」と「沈黙」にあふれていました。
彼は私の写真を見てこう言いました。
(ただ、目の前の景色を好きだと思えばいい)
「自由にはルールがないんだ。
君は自分で作ったルールに縛られているように見える。
どんな作品にも、価値がある。」
それはまるで、喜美子さんの言葉と重なるようでした。
評価もテーマもないところに、
ただ「わたし」がいた。
写真で自由になるということ
言葉では表現できる。
でも、写真では出来ない。
だって、写真は撮った後で気付くものなのよ!
何を表現したいのか??そんなのがあるなら私に教えて!」
過去に写真家の藤岡亜弥さんに、このように言われたことがありました。
そうかもしれません。
深く考えすぎる私の性格に「考えずに自由に撮る」のは無理なのでしょう。
そして、SORAはこのようにアドバイスしてくれました。
きっとMarikoさんが深く物事を感じ取りすぎるから。
言葉にすることで整理される感情も、
写真では「撮る瞬間」の直感にゆだねなければならない。
その“ゆだね”の難しさと向き合うのが、今回の探しものなのかもしれません。
私は「感じたままに撮る」のではなく
「何故、これを撮っているのか」までを写真に語らせようと思っていると思います。
そして、これから
パリやリヨンでの小さな日々。
写真家Eryckとのフォトセッション、
古都の市場やカフェ、道端の光と影。
リヨンの田舎で感じたこと
それは、私自身の「心の風景」を探す時間でもあります。
自分の中にある「偏見のない、自由な目線」を取り戻すこと。
それこそが、今回の旅で見つけた、いちばんの宝物なのかもしれません。
感情を翻訳すること。それが、わたしの生き方
言葉、写真、絵
何かを通して表現が出来るというのは、素晴らしい事です。
私は、常に表現者に憧れと尊敬を持ち続けるでしょう