写真の真価:技術と感性の融合
写真という芸術形態において、「良い写真とは何か」という問いは、長年にわたり議論の的となってきました。写真家として、また写真同好会の主宰者として、この問いに対する様々な見解に接する機会がありました。
写真界の重鎮たちは、それぞれ独自の視点から「良い写真」を定義しています:
– F先生曰く、「上手い写真とは、見る者の心に響き、記憶に刻まれるもの」
– 二科会支部長の言葉を借りれば、「構図のスッキリ、露出のハッキリ、視点のドッキリ」が鍵
– 大阪のT先生は、「写真展で自作を二度見られたら成功」と評しました
さらに、「写真家」「カメラマン」「写真作家」の職域の違いについても示唆を受けました。これらの見解は、写真の多様性と、その評価の主観性を如実に物語っています。
究極的には、「誰のために撮るか」が写真の本質を規定します。しかし、200人近い会員を擁する同好会の代表という立場上、周囲の評価を意識せざるを得ない状況もありました。時に、自身の好みや直感に反する作風を追求したり、真に満足できる作品を公開せずにいたりと、葛藤の日々を送りました。
一度、勇気を出して自身の美学を体現した作品を発表した際、「謎の記念写真」と評されたことは、今となっては貴重な経験です。ある著名な写真家から「卓越した視点」との賛辞を頂戴しましたが、それが純粋な評価か気遣いかは定かではありません。
表面上は他者の評価に無関心を装いながらも、内心では人一倍気にしていたことを認めざるを得ません。この心理的葛藤が、私が写真展の開催を躊躇した主たる理由でした。
しかし、時を経て、これらの経験から得た結論は以下の通りです:
「真に価値ある写真とは、作者自身が納得し、かつ鑑賞者に何らかのメッセージを伝えるもの」
個々人の生き方、感性、価値観が多様である以上、写真に対する画一的な評価基準を設けることは不適切です。「上手い」「下手」といった単純な二分法は、芸術としての写真の本質を捉え損なう危険性があります。
写真は、技術と感性の融合から生まれる個人的表現の一形態です。それゆえ、外部からの評価のみを目的とした創作は、真の芸術性を損なう可能性があります。写真家一人一人が、自身の視点と感性に忠実であることこそが、真に価値ある作品を生み出す源泉となるのです。