写真家とモデルとカメラマンが考える良い写真

写真の活用

写真が上手いとはどういうことか(self awareness)

あなたは何のために写真を撮っていますか?
記録の為。
趣味の為。
色々あると思います。

写真を撮るときに他人から「上手い」と言われたいですか?
せっかく撮るなら、下手だと言われるよりも上手いと言われたいに決まっています。
それは人間の持つ承認欲求であり、「欲望」なのです。

写真が上手いという意味

幼少の頃、父のフィルムカメラで撮ったときに、父から「こんなにキレイに撮るなんて凄いなあ!」と言われたことがあります。
調子に乗り始めた、この日がカメラデビューだと思ってます。
ピントが合ってるのが良かったのかも知れませんし、単に父の機嫌が良かったのかも知れませんが、父の驚いた顔は嬉しかったのでしょう。

高校生の時に写真部に所属し、文化祭で、「美人で有名だった先輩の写真」と「女子生徒が犬と遊んでる写真」の2枚を展示しました。
顧問の先生から、美人の先輩の写真だけを褒められましたが、私は、もう一方の写真の方が伝わってくる写真だと感じたのです。
”上手いのではなく、先輩が美人で表情が良いだけではないのか?
もう片方の写真は、この女子生徒の優しさと犬の関係性が伝わってくると誰も感じないのか。”

上手いという意味が分からなくなったのです。これが当時、高校2年生の時の私の本音です。

魅力を引き出すのが上手いカメラマン

大学の頃、アルバイトでモデルクラブに所属していました。
キャノン主催で故一色一成先生 の撮影モデルの仕事がありました。
「もっと僕に甘えるように、ほら、目で誘ってごらん。」
と、カメラを構え、きわどい言葉で話しかけてくる一色先生に正直戸惑いを感じました。
モデルとカメラマンは相性があります。
まだ若かった私は「Hなカメラマンだな。早く終わらないかな。」と内心思いました。
私は話しかけられるより、無言でシャッターを切られる方が気持ちが乗っていました。
シャッター音と会話しているような快感で、何でもできるような気分になるのです。
「開発しよう、もっといいモデルになるよ。」一式先生は最後に、そう言われました。

それから1か月ほど経って、一色先生から事務所に送られてきた”拗ねたような上目遣いの写真”を見て、マネージャーが爆笑しました。
「あなたが、拗ねた時に良い顔をするってことを見抜いてるんだよ。」
「カメラマンは写真家を”芸術家気取りの貧乏人”と言い、写真家はカメラマンを”魂を売った守銭奴”と呼ぶ。僕は単なる女性好きで、どっちでもない。」
一色先生が、そんなことを言われていたことを思い出しました。
一流になれば肩書きは「女好き」でも何でも好いのかも知れないな、と妙に納得した経験でした。

写真作家は自己を表現する

写真コンテストなども審査員が変われば選ばれる写真も変わりますので、選ばれた作品は優れた作品というより「審査員の好み」です。
「今年から審査員が○○さんになったから、こういう写真は選ばれる。」というのは多くの写真作家の間で日常茶飯で行われている会話です。
私は逆に「他人に批評されたくない」と思っている人の写真の方が「魂を揺さぶられる写真」が多いと感じます。
ヴィヴィアン・マイヤーや晩年のソールライターの作品を見ると感じますが、彼らは自分の写真のすばらしさを熟知しているにも拘らず公開する事を好みませんでした。
心の内面に土足で入って欲しくないのと同様の気持ちかも知れません。
要するに「承認欲求のために撮っているのではない」という意味で、それが本来の芸術家の姿だったはずです。
裏で仕組まれた「賞」に振り回され一喜一憂する人を否定するわけではありませんが、本末転倒になるべきではないと思うのです。

写真を撮るときに大切なもの

40代の頃にカメラメーカーでカメラやレンズの知識を得て、フォトマスター検定を受けました。
デジタルカメラに切り替わった直後の時代、フィルムで遊ぶ楽しみからPhotoshopで加工という形になってきた頃です。
更にスマホの登場で、カメラと写真の関係も大きく変わってきました。
このように、私は長年様々な立場から写真と向き合い、学んだことや感じたことが山のようにあります。

なのに私は写真が下手なのです。
みんなが上手いと思う写真を撮れないのです。
皆が上手いと思う写真が好きではないといった方が良いかもしれません。

最終的に何が大切なのかと聞かれると、それは「感性」だと思います。
それ以外に必要なものを思い浮かびません。

万人に好まれる感性がない私は、一生上手いと言われる事がないでしょう。
そしてそれが私の写真だと納得しています。
自己満足だとさんざん意見されましたが、何が悪いのかとさえ思います。

では、感性は、どのようにすれば磨かれるのでしょうか。
一番いいのは子供の頃から、若いうちから発見を心がけることですが、今からでも遅くありませんので参考にして下さい。

何かを創造する時のアイデアの材料になるものは、私たちが「見たもの」「経験した事」以外にありません。
見たことがない物を作ることは出来ませんし、経験しなければ使いこなせるようにもなりません。
写真もそれと同じで、材料が多ければ多いほどアイデアも沢山生まれてきますし、実際に行う事で自分のものにすることが出来ます。

発見を心がける方法

①見つける力を養う
小学生の頃、帰り道で面白い虫を見つけたり可愛い花、綺麗な石を見つけ、つい夢中になってしまったことがありませんか?
その時の気持ちを思い出しながら「ここを写真で撮ったらどうなるかな」と想像しながら散歩してみてください。
②芸術作品に触れる
見た物、経験したものが材料です。
すぐれた芸術作品に触れることで自分の想像力を磨く癖をつけてください。
創造されたものなら何でも構いません。
私は2014年に広島で開催されたドリス・サルセド展というインスタレーション展で得た衝撃が忘れられません。
一面に拡がった、バラの花びらで表現された「虐殺で失われた命」や机と植物で表現された、「お墓」。
恐怖と悲しみと憎しみ、そして微かな希望の混ざり合った表現が強く脳裏に焼き付いています。
そのような繰り返しが感性を育むきっかけになると思います。
③心に響いた場所はメモしておく
良い場所があれば「マイ撮影スポットリスト」として日記に書いたりメモしておけば役に立ちます。
ちなみに私は「サビ」や色褪せたものが放つ情感が好きで、車で走っていても気になる場所を見つけると引き返したりします。

モンテッソーリ教育は、多くの著名な創造者を生み出した自己認識力を高める教育方法です。
まず「観察」から始めるという考え方ですが、自発的動機に気付く点で大人にも応用できます。

個性を伸ばすことが出来ない「大先生」

最後に、これまで写真と関わってきて特に重要だと思う「個性と感性」について少し書かせてください。

写真教室の中には「ほかの教室に行くと変な癖がつくから、行ってはいけない。」という「大先生」を名乗る人がいると聞きます。
その大先生は、日本の教育そのもので「自分のお手本通りに写すことが正しい。」と教え、その通りにしない生徒の作品にダメ出しをするわけです。
せっかく興味と夢を持って写真を始めたのにも関わらず、「自分は駄目なんだなあ」と落ち込んでしまいカメラがお蔵入りになります。
恐らく「個性」を叩き潰す日本の教育の影響なのだと思いますが、そんな話を聞くたびに私は憤りを感じ、暴れたくなる気持ちを押さえます。
写真は芸術です。表現は自由なのです。商用写真でない限り誰かに批判されるべきではないはずです。
「世間に評価されるか、されないか」という事はあっても、指導者の好みで「上手」「下手」という評価をすべきではありません。
敢えて言うなら「ピントが合ってない」「ブレている」というところですが、これも写真表現のうちですので意図的に表現したものなら誰かに指摘されるものでもありません。
「大先生のコピー」を目指すなら別ですが「自分の写真」を撮りたいと思うなら、そんなハラスメント大先生からはとっとと離れてください。そのうち人生まで否定されかねません。

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